今年のGWは、中欧3ヶ国(ハンガリー、スロバキア、チェコ)を旅行しました。(その他、友人訪問のためにドイツとフランスも訪れたのですが、この旅行記では省略致します。)
ブダペスト空港に到着すると、約束通り、ハンガリー人の友人(6年前にデンマークで知り合った)が、出迎えに来てくれた。とりあえず、その日は、ブダペスト中心部にある、その友人の勤める会社の寮に泊めさせてもらった。
ブダペストは、ドナウ川を挟み、ブダとペストの2つの街からなっているので、私は、まずブダ側を訪れ、次にペスト側を訪れることにした。
夜が明けた。早速、観光を開始する。まず、ブダ側からだ。ブダペストの街が一望できるというゲッレールトの丘に登った。丘の上には、ナチスドイツからの解放を記念した巨大な女神像が立っているが、その下にあったソ連兵の慰霊碑は、全て撤去されていた。丘の上から街を望むと、大変見晴らしがいい。ブダペストは、かつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の一方の首都だっただけあって、確かに、雰囲気がウィーンに似ている。しかしながら、旧共産圏の国だけあって、ペスト側の街を見ると、建物の壁や屋根は汚れている。「美しき青きドナウ」という曲があるが、ここから見えるドナウ川は、青く美しくはなく、茶色っぽく濁っている。
次に、王宮の丘へ移動した。王宮の丘の上からの景色も、なかなかよい。特に、世界一美しいと言われる国会議事堂が、良く見渡せる。
ペスト側には、地下鉄で行った。地下鉄は、ロシア製のオンボロをまだ使っている。また、バスは、国産かルーマニア製のオンボロだ。地上に出ると、トランバントやラダやスコーダといった、かつての旧共産圏時代の車が走りまわっている。そのせいか、空気も汚い。
ペスト側では、まず、英雄広場を訪れた。英雄広場の中心には、大きな塔がある。まるで、ベルリンの戦勝記念塔のようだ。この英雄広場の奥に進むと、市民公園に入れる。
この市民公園の中に、こじんまりとした城があった。何でもこの城は、建国千年祭のときに、ヴァイダフニャド城とかいう城をモデルに作ったもので、私の友人は、「このヴァイダフニャド城こそ、ハンガリー人の心の故郷だ」と言っていた。しかしながら、奇妙なことに、この城は、現在、ハンガリーではなくルーマニアにある。この城があるトランシルバニア地方は、ハンガリー人が数百年に渡って居住してきた地域だったが、旧ソ連が、ルーマニアのモルドバ地方を奪う代償として、ハンガリーから削ってルーマニアに渡した土地なのだ。2度の世界大戦を経て、ハンガリーは国土の70%を奪われたが、現在でもハンガリー人は、他の領土はさておき、トランシルバニア地方には、格別の思い入れがあるようだ。
こういう事情もあって、トランシルバニア地方には、現在でも多くのハンガリー人が住んでおり、ビザ無しでルーマニアから入国できる。そして困ったことに、ついでにジプシーも入国してきてしまうので、ブダペストの街にはジプシーが溢れている。治安の悪化の原因にもなっているようで、ハンガリー人からは嫌われている。
市民公園を訪れた後、ドナウ川の川岸に出てみると、有名なくさり橋がすぐそばに見える。しかしながら、昼のくさり橋は、それほど美しくない。そのため、夜に再びくさり橋を訪れた。すると、ライトアップされて、ものすごく美しくなっている。くさり橋以外にも、色々な建造物もライトアップされていて、本当に美しい。しかしながら、電力消費量も、かなりのものと思われる。ハンガリーは貧乏なはずだが、どこからこんな金が出てくるのだろうか?
上記のこと以外で、ブダペストを訪れて感じたことは、まず、バスの中などで若い人が老人に即座に席を譲るなど、貧乏であるのにも関わらず、社会的モラルが非常に高いということだ。人々は大変文化的で、誇り高い。この国は、オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊以降、全然いいことなしだが、彼らマジャール人が再び歴史の表舞台に台頭することも十分有りうるような気がする。
余談だが、ハンガリーと言えば、温泉が有名である。実は、私は是非温泉に行きたかったのだが、友人に止められた。何でも、ハンガリーの温泉は、ゲイの溜まり場、いわゆるハッテンバになっているというのだ。私も自分の体が大切なので、結局、温泉には行かなかったが、ハッテンバになっているというのは、この友人の偏見である可能性もあるので、誰か体験者は、その体験談を教えて欲しいと思う。
さて、ブダペストからは船でスロバキアのブラチスラバに入った。元々、ウィーン行きの船だったのだが、ブラチスラバにも申し出があれば停泊するということだったので、泊ってもらった。しかしながら、ほとんどの乗客はオーストリア人で、ウィーンまで行くらしく、降りたのは私を含めて2人だけだった。確かに、列車やバスの3倍以上の料金がかかる船を、貧乏な旧共産圏の人たちが使うはずもない。
さて、2日有効のトランジットビザを予め取っておいたので、何の問題もなく入国できると思ったのだが、船で入国する人間は、あまりいないためか、港の入国審査官のオヤジは、大変もたついていた。とりあえず、パスポートにスタンプを押し、ビザの控えの紙をくれたので、やっと、入国できた。
入国すると、早速、プラハ行きの夜行の切符を買いに、駅に行った。すると、英語が全く通じない。そこで、気を取り直して、ドイツ語で話し掛けると、難なく通じた。ハンガリーでは友人と一緒だったので、気が付かなかったのだが、中欧では、英語が通じず、ドイツ語が通じるというのは、どうも本当のことらしい。
その後、ブラチスラバ城と旧市街を訪れたりして(というか、それしか訪れるものがない)、夜まで時間を潰した。街の造りは、ドイツの地方都市そっくりだ。
日付が替わって午前1時になったので、夜行に乗り、プラハに向かった。コンパートメントの中で、一人ぐうぐう寝ていると、チェコとスロバキアの国境に着いたらしく、スロバキアの出国審査官が乗り込んできた。何やらわめいているので、目が覚めてしまった。
パスポートを見せたところ、突然、この審査官が怒り出した。現地語と英語とドイツ語がごちゃ混ぜになっているので、何を言っているのか、正確にはわからないが、どうも、「お前が入国したのは4/20だから、乗り換えのためのトランジットビザは使えない」と言っているようだ(この日は、4/29だった)。「そんな馬鹿な!おれっちが入国したのは、4/28だぜい」と言うと、「嘘つけ!入国スタンプは4/20になってるぞ、ホレ!」と言って、パスポートを見せてくる。ゲッ!確かに、スタンプの日付は、4/20になっている。港のオヤジが間違えたのだ!
私が当惑していると、この出国審査官は、「ビザの控えはどこだ!」と言ってくる。アッ!それは今さっき、パスポートを出す時に落としたのだ。そこで、それをすぐさま拾って、奴に見せる。すると、「何じゃ、こりゃー!写真がないぞ!」と言う。「え?写真って、何?」と聞くと、「ビザの控えには、写真がついてないとイカンのじゃ!」と答えてくる。ゲッ!2枚のビザのうち、写真が付いていたほうは、港のオヤジが取ってしまったのだ。あの野郎!反対の方をよこしやがったな!
更に私が当惑していると、「ホテルの宿泊証明のスタンプがないぞ!」と言ってきた。そりゃ、そうだ。半日しかいないんだから、そんなのあるはずがない。「4/20に来て、お前はどこ泊ってたんだ?!」と聞いてくる。まずい、この男、本当に私が4/20に来たものと思い込んでいる。
その挙げ句に、「ビザは期限切れだし、写真はないし、ホテルのスタンプもない!ホテルのスタンプを押してもらいに、警察にペナルティを払いに、Go
back to Bratislava!」と言って、私を列車から降ろそうと腕をつかんできた。
ゲッ!いい加減にしろ!私はそこでブチ切れた!そこで、日本語と英語とドイツ語を織り交ぜて、私の正当性を、とにかくわめきまくった。他の乗客や出国審査官も、何があったのかと、ガヤガヤ集まってきた。しばらくして、女性の審査官が、私と争っていた審査官に何やら話し掛け、2人で列車を降りてしまった。私のパスポートは、奴の手にあるままだ。どうしたものか、眠気も吹っ飛んで、コンパートメントの中で困り切っていると、やっと、彼らが戻ってきた。今度は、制服の色が異なる年配の上級職のような男と一緒だ。
そこで、私は落ち着いて、全ての経緯を説明し、4/28の日付がある船のチケットの控えを見せ、また、パスポート内のハンガリーの入国スタンプ(4/25入国)を見せた。そこで、納得してくれたのか、出国のスタンプを押してパスポートを返してくれ、彼らは列車を降りて行った。こうして、無事にスロバキアを出国できたのである。
このように、一見、同じように見えるチェコとスロバキアも、国境では、かなり気合いの入った検査が行われているのである。それにしても、港のオヤジだけは絶対に許せない。皆さんも、入出国の際には、そのスタンプの日付が間違っていないか、ちゃんと確認しよう。
さて、色々あったが、早朝、プラハ本駅に到着した。午前6:00過ぎで、駅のツーリストインフォメーションも空いたばかりのようだ。そこで、1泊2000円程度の宿を尋ねると、地下鉄で数駅行ったところに、安宿があるらしい。とりあえず、そこに決めてお金を払い、住所が書いてある控えをもらって、私はホテルに向かった。地下鉄の駅を降りて、通りをまっすぐ歩く。住所がその通りになっているからだ。
そして、ついに、目的の番地にたどり着いた。しかし、困ったことに、その建物は、どう見ても、教会にしか見えない。教会の中をうろうろしていると、建物の奥の方から老人が近づいてきた。しかしながら、この老人、英語もドイツ語も通じない。この老人が何を言っているのか良く分からなかったが、とにかく、ここがホテルでないことだけは確かのようだ。「困った!駅のインフォメーションの娘が、間違った住所を教えやがったのか?!」
教会の表で頭を抱えていると、犬を連れて散歩しているおばさんがやってきた。とりあえず、「このホテル知ってる?」と、そのおばさんにドイツ語で話し掛けてみた。このおばさんが言うことには、ホテルはこの教会の裏手にあると言う。しかし、裏手には、運動場のようなものしか見えない。半信半疑で、その運動場の方に向かうと、その奥に、まるで体育会の更衣室や部室があるような2階建ての建物が見える。何と、それが目指すホテルだったのだ。(実際に学校の運動部の部室を改造したもののようだ。)
ホテルの部屋で仮眠を取ったあと、早速、街の中心部に向かう。プラハの街は、ヴルタヴァ川(モルダウ川)を中心に、東岸と西岸に分かれている。東岸には、旧市街があり、西岸には、プラハ城がある。
まず、私は、旧市街の中心である旧市街広場に行った。観光客で埋め尽くされていて、人口密度は、東京のそれと大差ない感じだ。旧市街広場には、有名な天文時計のある市庁舎がデーンと構えている。
この天文時計は、正時毎に仕掛けが働く、いわゆるからくり時計になっているらしく、正午数分前ということもあり、時計の前は、観光客でごった返している。一体、どのような仕掛けが施されているのだろう…?私は、「そごう」の人形時計を連想しながら正午を待った。そして、ついに正午になった。みんなは時計を凝視している。すると、どうだろう?時計の上部に取り付けられた2つの窓が空き、イエスの十二使徒(イエスの弟子達のこと。エヴァンゲリオンとは関係ない)が次々と現れたかと思うと、そのまま窓が閉まってしまった。余りにもあっけないので、ざわざわとどよめきが起こっている。「Finished?」という声も聞こえてきた。私も大変拍子抜けしてしまったが、500年も前に作られた時計に、あれ以上のものを期待すること自体、間違いなのかもしれない。
さて、市庁舎の塔に上がると、プラハの街が良く見下ろせる。ブダペストとは異なり、プラハの街は、大変美しい。特に、延々と続く赤い屋根が美しい。町並みに関しては、西側の国と何も変わらないと思う。
旧市街を見た後、ユダヤ人街を訪れて、ヴァーツラフ広場に向かった。ヴァーツラフ広場は、プラハ西岸の中心であり、例の「プラハの春」の時に、チェコの民主化運動を押し潰すために、当時のワルシャワ条約機構軍(昔、学校で習ったっけ…)の戦車部隊に蹂躪された広場でもある。
次の日は、プラハ城のある西岸に行った。西岸に行くには、まず、有名なカレル橋を渡らなければならない。カレル橋も、大変多くの観光客でごった返している。その上、観光客目当てのストリートパフォーマーも沢山いて、歩きにくい。
西岸にたどり着くと、今度は、プラハ城のある丘の上に行くために、長い階段を上らなければならない。結構疲れたが、何とか丘の上にたどり着いた。ここからの景色もなかなか良い。
さて、プラハ城の中には、色々な建物があるのだが、一番目を引くのは、やはり聖ヴィート教会である。見た感じ、まるで、ケルンの大聖堂のようだ。また、ユダヤ系チェコ人作家であるカフカの家も、このプラハ城内にある。
それにしても、ブダペストやブラチスラバもそうだったが、このプラハにしても、町並みや建築様式などは、本当にドイツやオーストリアのそれと酷似している。言葉にしても、英語なんかよりドイツ語の通用度の方が高いし、数百年の長きに渡るハプスブルク家による支配の影響力の大きさを改めて感じた。私が個人的に考えるに、これら中欧3ヶ国を旅行する人は、旧ソ連圏を訪れると考えるよりも、むしろ、旧ドイツ語圏を訪れると考えた方が、旅行する際のイメージのギャップが少ないような、何かそんな気がするのだ。
以上
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