パラグアイ



サンティアゴから飛行機でパラグアイの首都アスンシオンに向かいました。タム・メルコスール(TAM Mercosur)というブラジルの航空会社のフライトだったのですが、出発が4時間近くも遅れたため、日没頃にアスンシオンに着くはずが、結局、深夜前の到着になってしまいました。空港の両替屋は閉まっており、仕方なく小額を闇両替屋(本来はレンタカー屋のようだった)で両替してもらい、タクシーで中心部に向かいました。

今回は、パラグアイのある日系人家庭(Yさん一家)に事前に連絡を取っており、アスンシオンに住むYさんの息子さん(大学生)と、日系ホテルのホテル内山田で待ち合わせることになっていたので、とりあえずそこに向かいました。ホテル内山田は立派な高層ビルのホテルで、高層建築物のほとんどないアスンシオンでは目印になるくらいの存在です。(しかしながら、今回は迎えに来てくれた息子さんの学生寮に泊めてもらうことになっていたので、ホテルには滞在せず、そのまま学生寮に向かいました。)パラグアイはチリと比べて蒸し暑く、まるで日本の夏のような気候でした。
(写真21:ホテル内山田のロビー)

(写真22:アスンシオンの中心に位置する霊廟)
翌日はアスンシオンの市内観光をしました。首都とは言っても小さな街ですので、それほど見所はなかったです。旧鉄道駅、霊廟、新旧の国会議事堂、大統領官邸などを見ましたが、川に面した国会議事堂や大統領官邸の裏側はスラム街になっており、国の中枢となる機関と最貧層の住む貧民窟が隣接している景観は何とも奇妙でした。

旧国会議事堂はヨーロッパ的な建築でしたが、新国会議事堂は最新の近代建築でした。何でも、台湾政府からのお金で作ったそうです。パラグアイは、南米諸国の中で、中国代表政府として台湾を承認している唯一の国らしく、そのためこの国を基点に南米諸国は台湾と貿易や交流を行っているとのことでした。“ブラジルやアルゼンチンに利用されている小国”という認識で間違いないでしょう。
なお、この国は、先住民グアラニーとスペイン系白人との混血で社会が形成されており、スペイン語と並んでグアラニー語も公用語となっているなど、白人主体のアルゼンチン、チリなどとは随分と異なった雰囲気がしました。しかし混血の度合いにも差があることから、ほとんど白人と見分けが付かない人もいましたし、先住民色が明らかに強い人もいました。さらに、ドイツなどから来たヨーロッパ系移民やアジア系移民、混血していないインディオなどもいるため、パラグアイ人を“グアラニー”という言葉で「ひとくくり」にはできないようです。
(写真23:旧国会議事堂から見た貧民窟)

午後になり、バスでアスンシオンからイグアス移住地(Yさん一家のいる日系移民が多い移住地)に向かいました。現地には色々なバス会社があるのですが、この国はバス強盗も多いらしく、「最も安全」とされる高速バスに乗って現地に向かったのです。本来はブラジル国境にあるシウダー・デル・エステ(エステ市)に向かう直行便ですから、途中で手を上げて降ろしてもらう必要があります。そのため、車内でぐっすり眠ってもいられません。

「シロサワ」という日系人の経営するスーパーマーケットの前で降りるように言われたので、そこで降車すると、Yさんご自身が迎えに来てくれていました。その後、Yさんのご自宅に移動し、そこで夕食をご馳走になりました。途中で日本人会館の前を通ったのですが、大きな観光バスが止まっていました。日本の東北地方のとある県の県知事一行が移住地の視察に来ているとのことでした。(実際にはイグアスの滝の見物かと思いますが・・・。)

パラグアイには日系移民が約8000名ほどおり、そのほとんどが太平洋戦争後の戦後移民です。敗戦後に引き上げて来た満州移民対策なども関連し、日本政府が戦後に移民先を探した結果、手を差し伸べてきた国がパラグアイだったのです。そして移民事業は開始されますが、その後、日本が高度経済成長期に入り、パラグアイの政治・経済が低迷を続けていたこともあり、わずかばかりの移民が入植しただけで、両国の移民協定による移民の上限枠に全然達しないまま、日本からの移民は終了しました。ほとんどの日本人はパラグアイの日系移民のことなど全然知りませんから、ある意味では、彼らは“忘れられた人々”と考えることもできるかもしれません。しかしながら、日系移民の方々は農業を中心に現地で活躍されており、優れた農業技術をパラグアイに普及させたことなどから、現地では尊敬の対象となっています。また、現地の日系社会は移民当時の文化・風俗を残しており、依然として昔ながらの日本の行事が行われているのです。「地球の裏側にある数十年前の日本」という表現が適切でしょうか?

なお、Yさん一家には、ご自宅に泊めて頂いたばかりか、美味しい食事まで毎回用意していただき、大変感謝しています。また、パラグアイの移民史を始め、色々と貴重なお話を伺うこともできました。(それだけで1冊の本が書けてしまえそうです。)


(写真24:シウダー・デル・エステからブラジル側を望む)
2年前にイグアスの滝やイタイプーダムは既に訪問していたこともあり(「いなぽんの南米旅行記U」を参照)、翌日は、ブラジル国境の街であるシウダー・デル・エステ(エステ市)を訪れました。電器街を中心とした巨大な問屋街で、アラブ人や中国人(台湾人)がブラジル人やアルゼンチン人向けに商売をしています。そのため、米ドルはもちろんのこと、ブラジル・レアルやアルゼンチン・ペソでの支払いにも何の問題もありません。ちなみに価格表示は米ドルで行なわれていました。
なお、この問屋街、特に電気街のいたるところに武装した警察官や軍人が立っていました。万引き防止対策にしては、あまりにも大袈裟ですから、おそらく強盗対策なのでしょう。こんな感じで、この街はかなり治安が悪そうですので、宿泊するようなところではないと思いました。
(写真25:電気街の中に武装した警察官・軍人が・・・)

(写真26:イグアス移住地の中心にある鳥居のモニュメント)
次の日の午前中は、イグアス移住地の中心部にある農協、日本人会館、日本語学校、共同墓地などを訪れました。街中には、「夢いっぱい 元気にはばたけ イグアスの子」などといった標語の看板もありました。

なお、街の中心部に赤い大鳥居がありましたが、これは神社の入口というわけではなく、パラグアイ人の市長から寄贈された単なるモニュメントであるとのことでした。
その後、アルゼンチンのブエノスアイレス行きの飛行機に乗るために、車で20分程度離れたグアラニー国際空港に向かいました。この空港は日本からのお金で作られただけあって、1日に数便の飛行機しか飛ばないのにも関わらず、大変立派な空港で驚かされました。(日系移住地が近くにあるためでしょうか?)
(写真27:首都の空港よりも立派なグアラニー空港)


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